GSM担当の吉田です。7月9日のブログ(開所前の1996年ごろの話。現在との比較写真あり)の続きです。
「10ヵ年計画を考えるにあたり、海外現場の実力を確かめねばならない」との思いで、タイ・フィリピン北部に続き、2020年2月、24年ぶりにミャンマーに行きました。(いずれも敢えて「乾季」に)私は「資金獲得・広報畑」と「森林畑」を歩んできました。それらの視点だけでは・・・という思いもありました。
これまで24年で、21人の日本人精鋭スタッフと、約3億円(ODA含む)が投入されました。もしかすると、専門家の常識から考えたら、「たったそれだけ??」と思うかもしれません。ですが私は、オイスカの歴史に残る「効果的な力の注ぎ方」「メリハリ」「持続性」という意味で学ぶべきと考えていました。
いまもなお、エサジョ郡の「西側」はサボテンと土獏の世界。車で5分行けば、生物多様性などない荒野。オイスカは「半乾燥地化」⇒「沙漠化」の最前列に立っています。常時流れる川はなく、熱帯雨林とは無縁。フィリピン北部やタイ北部で見た山火事常襲地帯のように、木がなくても燃える草だけはある世界とは違います。山火事跡地は2週間の陸路・空路で1回しか見ませんでした。燃える草すらないのです。
しかし、24年を経て、郡の「東側」(5㎞先にイラワジ河あり)には、見渡す限りの圃場や緑地が生まれ、国道沿いに集落が増えたことに驚きました。経団連ミッションの車中から私が写した写真からも、地平線が見えるような土獏だったはず・・・岡村郁男技術顧問を筆頭とする歴代駐在員たちが、ここで農業が出来ることを示したことに端を発したのは明らか。以来、オイスカの研修センターが存在し続け、郡内の村々を網羅する協力を行い、近隣を含む全国からの青年研修(年間20名)でバリバリの人材を輩出し続けた24年だったのだと思います。
直近約15年は、ODA(NGO連携無償資金協力:「有機農業生産物の食品加工施設・技術者投入等」)を除けば、日本からの送金は少なく済むようになり、WFPとの協働も始まりました。この協働は現場の能力向上に大きな影響がありました。そもそも、基本認識として重要なのは、「WFPは世界のどこにでもいるわけではない」ということです。彼らがいるということは「優先順位の高い現場」という証です。また、パートナーに指名されるということは、「彼らが持ちえない腕を買われた」ということです。現地責任者のインタビューの機会をいただいたとき、「(子どもたちや住民の栄養改善に向けて)土づくりからできるのはオイスカしかない。オイスカがいなければ、私たちは仕事が出来ない」と聞きました。2019年、現地オイスカは多忙を極めているため、「1年休ませてほしい」と交渉したようですが、逆に「エサジョ郡に加え、新たに隣接2郡を共にしてほしいと押し切られた(笑)」ようです。
滞在中、齢90に迫る岡村顧問(昔は、海外からの一時帰国のたび、恐る恐る会話させてもらっていたものです)らとともに、毎日朝から晩まで、期間中に20以上の村を訪ねました。まず、村々に対する「メニュー」には、土の作り方、農畜循環型農業など日本国内研修センターでの指導の痕跡があり、現地研修センターの持つ実行力とチーム力を活かしきっています。トヨタファーム(愛知県豊田市)の鋤柄雄一社長から厳しい技術指導を授かった「養豚」技能実習生OBたちは、ミャンマー初の人工授精を成功させ、養豚に限らず、一人が何役も担いつつ、村々に訪問指導を繰り返していました。彼らのチーム力を一言で述べよと言われたら「無駄がない」と私は答えます。
「オイスカの農林業研修センターは、One Stop的存在でありたい」
(小杉辰雄ミャンマー・バングラデシュアドバイザー)
住民にとって、訪ねて行けば、多くのことが解決に繋がる存在という意味だと思います。
「世の中にオイスカは必要」だと、ミャンマーでも感じました。
二重苦のいま、日本人スタッフ不在ながら、現地スタッフだけで業務は続いています。
とにかく今は、耐え抜いてほしい。持続可能な姿をオイスカが保てれば、正比例以上に多くの人々、村々の役に立てるのです。研修センターの貯蓄も備蓄も困窮し、研修生の受け入れも出来ず、治安の様子を見ながら近場の村にだけは足を運んでいる状況です。まだ学校も機能していません。スタッフは村々でやりたいことは無限大にあるはず。緊急募金は、スタッフの心の支えとして、いずれ資金以上の効果を生むはずです。
GSMとしては、ジャパンマネーだけでなく、海外にも募金を呼び掛けを始めました。
⇒ Global Giving
次は、「子供の森」計画に関することなどを書こうと思います。