2020年7月7日

国ボラ経験者ブログ⑤『オイスカの経験が自分の一部になっている』

  • 国際協力ボランティア
  • こっそり連載化していた「国ボラ経験者ブログ」も第5段。

    ※前回までの掲載は、タグの「国際協力ボランティア」からご覧ください。

    今回は、春日タイ駐在代表の国ボラ時代の同期であり、現在、福井県で新聞記者としてご活躍中の堀英彦さん<国ボラ15期生>がご執筆くださいました!

    堀さん、ありがとうございます!

    (広報室 倉本)

    以下、堀さんのレポート


     

    バブル経済がはじけ、就職氷河期。オウム真理教による地下鉄サリン事件では大勢の犠牲者が出た。社会は大きな不安を抱えていた。正しいとされてきたことが、本当に正しいのかと疑いを持ち始めた時代でもあった。1995年、私は大学を卒業し、国ボラ15期生として当時は静岡の浜北にあったオイスカ専門学校(研修センター兼任)で生活を始めた。「就職するまでの自分探し」という若者ならではの甘い感覚だった。

    多くの国の人たちと一つ屋根の下で生活するのは初めてだった。フィリピン人女性のジェナリンさん(通称ジェニさん)との交流が記憶に残る。彼女はいつも厨房にいた。炊事が好きだった私は、ジェニさんとすぐに仲良くなり、近くの畑で一緒にスイカを育てた。毎朝夕一緒に水やりをした。ジェニさんは、当時22歳の私よりだいぶ年上だったが、いろいろな話をした。家族のこと、恋愛のこと、国のこと、戦争のこと…。時々ジェニさんは畑で泣いた。外国人を「同じ人間だ」と心の底から理解できたのは、これが初めてだった。

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    研修所では定期的に面接があり、今後の進路について聞かれた。私はいつも「正面から国際協力に関わりたいのではなく、将来教師になって、この経験を生かしたい。オイスカに残るつもりはない。だから派遣先は外国でなくても構わない」と答えた。15期生は18人。このうち海外に行けるのは半数程度。オイスカに残らない自分が、海外に赴任するのは、他の人に申し訳ないと思った。「フィリピンのミンダナオ島」と言われたときは、正直驚いた。ジェニさんは「私の国をたくさん見てきてね」と言った。

    赴任初日から、ピニアンという山奥に放り込まれた。そこにいる日本人は私1人だった。これがミンダナオ島の池田先生のやり方だった。今思うと実にありがたかった。なりふり構わずコミュニケーションを取るしかない状況に追い込まれ、必死だった。現地での活動は、植林とCFPの2本柱だった。パイナップルやトウモロコシの繊維を使って紙作りにも挑戦した。近くには青年海外協力隊の人もいた。欧米のNGOのボランティアもいた。ただ、住民と深くかかわって活動しているのはオイスカだった。住民の苦しみ、抱える矛盾、本当の暮らしを見聞きできるのはオイスカだけだった。翌年4月に帰国したが、直前に池田先生から「ここにいるか?」と問われた。数日考え断った。受け入れたら、二度と帰国できないかもしれないと思った。「ここで死ぬ覚悟」を持てなかった。

    結局、人に教えるということに疑問を感じ教師をあきらめ、新聞記者になった。記者歴20年を超えた。福井には技能実習生としてインドネシア人を受け入れ、農業を指導している法人がある。新聞は客観報道が原則といわれるが、どうしても記事で応援したいと肩入れしてしまう。

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    長く記者をやっていると、社会の闇や不条理にぶつかることも多い。つくづく嫌になることもあるが、40代後半にして、1人の人間として社会に貢献したいという欲求が募る。オイスカでの経験が自分の一部になっていると、年を経るごとに感じる。同期の生き方を見聞きすると、自分と同じような感覚の人もいるのではないかと思えてくる。そして今もオイスカで働いている同期の姿を見ていると、なんとも誇らしい。

    グローバル化が進み「支援する」「支援される」という単純な社会でなくなっていると感じる。でも、私がジェニさんから学んだ「同じ人間である」という理解は、社会がどれだけ変容しようと普遍であり、出発点だと思う。オイスカには本当に感謝している。

     

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