2019年11月8日

俺のオイスカ史 ~渡辺重美編①~

  • 本部スタッフ
  • 広報室の林です。

    本部事務所の棚にはこんなアルバムがあります。
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    私の同期Yがつくった、年ごとの活動の写真を
    まとめてある「俺のオイスカ史」。
    そこから名前を拝借し、昨日聞いたフィリピン・ネグロス島の
    バゴ研修センター 渡辺重美所長のお話(主にはNGO連携無償資金協力で
    取り組むプロジェクト ネグロスシルク事業を基盤とする養蚕普及全国展開支援事業
    をもとにオイスカ史を綴ってみました。

    *************

    == なぜフィリピンへ? ==

    東京農業大学の農業拓殖学科を卒業。
    在学中に友人から、オイスカという団体がインドで農業を行っている話を聞いた。
    岐阜県の恵那で農家の三男として育った私は、「憧れの海外へ」との思いから、
    話を聞きに本部事務所を訪ねた。篤農家を現地に派遣して
    地域の農民と一緒に農業に取り組んでいることを知り、
    「卒業したらぜひインドへ」との誘いも受け、チームの一員として
    インドへ行くことをその場で決めてしまった。
    それなのに、3月末の卒業後、「来月末にフィリピンへ行ってくれ」と(笑)。
    ルソンでしばらく研修したのち、ミンダナオの農業大学で
    実習指導を3年行い、その後ネグロスに移って以来、
    今までネグロスで活動している。
    今は亡き池田廣志さん、現在もミャンマーなどで
    活躍をされている岡村郁男さんの下でトータル5年活動した。
    「開発とは」「オイスカマンとしてどうあるべきか」
    といったことを教えてもらうことができたラッキーな5年だった。

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           若き日の渡辺所長

    == なぜ養蚕?? ==

    ネグロスで活動をしていると、炭焼きをしたり、
    バナナやキャッサバを育てて収入を得ていた貧しい農家から
    「もっとよい収入になるものはないか」と問われ、また
    自分自身も彼らの生計向上のために何ができるのかを考えていた。
    フィリピンは稲作が盛んで、特に当時はマルコス大統領の
    食糧増産政策もあり、ネグロスでも稲作は盛んだった。
    自分自身も農家で稲作をしていたが、小学4年生までは
    稲作が終わると家で蚕を育てていた記憶もあったし、
    戦後の日本では、200万戸の農家が養蚕に取り組んで収入を得ていた。
    また、フィリピンの正装である「バロンタガログ」は
    縦糸に硬いシルクを使い、横糸にパイナップルやバナナの繊維を使っている。
    それはシルクの需要があるということ。
    桑の栽培から始め、養蚕に関しては日本からの技術者に協力を得ながら
    少しずつ農家を育て、技術を確立しながら普及させてきた。

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    アロヨ大統領がセンターを訪問したことも

    ②につづく。
    次回は養蚕事業の今をお伝えします。

     

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